執着する方法が分からない

小学生の時に母と、母に連れられた私が家出(夜逃げ)をし、兄と父と離れ離れになった。その日から父が亡くなるまで、亡くなってからも母と父は二度と顔を合わせることは無かった。

 

 

少し意地悪だけどユーモアのある父と、友達に慕われていて野球の上手い兄が大好きだった。

家出をしてからはもちろん、「また家族4人で暮らしたい」と母が無視をし始めるまでうるさく言っていた。

 

いつまで経っても、どうにかしたらまた家族みんなで暮らせると信じていたのだ。

 

 

しかし3年ほどの年月が経った頃、兄と会えるようになった。

その時兄に「また4人で暮らせるといいね!」と言ったところ「それはない。もうそういう事俺に言わないで。」と言われたことを覚えている。

その時にもう家族4人では住めないことをやっと悟った。

受け入れる準備などはできていなかったが、思い通りにいかないことがあること、人の気持ちは自分の行動ではどうにもできないことを学んだ。

 

 

 

家出をしてから、1人暮らしをはじめるまで6回程の引っ越しをし、どこでも常に転校生だった。

 

転校生というだけで人は寄ってくるし、新しい場所に身を移すことに慣れていたので、友達はいつもできていた。

 

しかし他の学校に転校をするときや卒業式、誰かが転校するときなどの友達との別れで涙を流したことは無かったし、惜しい気持ちもあまりわかなかった。

 

大人になるまでこの事実を【自分は泣き虫じゃない】と捉えていたが、今思うと執着心がなかったのでは?と思った。

 

 

 

 

執着の対象は様々だが、物に対しても人に対しても失うまでは自分なりに大切にしているつもりです。

ただ何かを失うことが人よりも簡単に受け入れられるだけなんです。

 

 

心の中では手放したくないものがあっても、脳が不利益だと判断すると、脳に従ってしまう。

しかし、不利益だと判断するのは自分の経験則でしかないので、執着した先で対象が本当に不利益のままなのか利益に変わっているのかが分からない。

年齢的には遅いかもしれないが、一度なにかにこだわって突き進んでみたい。

不利益だと分かっていながら進んだ先の事実が、自分の考えと違っていたらいいなという期待も少し込め、突き進んでみたい。

 

 

 

世間的には悪く使われがちな【執着】という言葉だが、執着の経験がない状態で嫌悪するくらいなら、身をもって確かめてみたい。

まぁ自分に害があるものを簡単に諦めることができるというのは、自分のことを大切にできているとも言えるのでどっちが正しいのかは分からないが、一つの経験という形で自分の財産にしたいと思う。